whkr’s diary

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『エルフ夫とドワーフ嫁』の感想と『絵描きの婚活レポ』における失礼について

『エルフ夫とドワーフ嫁』の感想

エルフのカーシュからドワーフのキオナへの想いばかりが描写され、キオナからは彼女の課した条件をカーシュがクリアしたことへの安心感しか描かれないので、アンバランスさを感じた。
キオナの人生には、カーシュは必須ではなさそうに見える。いればうれしいけどいなくても困らない、というオプション扱い。
ブコメにもあった、終始選ぶ側からの視点に重きを置いた漫画だという指摘は間違いではないだろう。
まあ、惚れたら負けとも言われるし、積極的に恋愛はしたくないけど条件を満たした相手から誠実なアプローチを受ければ考えてやらんでもない、という欲求には私も共感するし、そういうニーズを満たすのに都合のいいファンタジーだと思う。
これまでの恋愛漫画のようにかけがえのない相手との心乱されるやり取りを楽しむのとは違う、恋愛至上主義から脱却する方向の作品なのかもしれない。

『絵描きの婚活レポ』における失礼について

さて、本題。
まずこの作品を「配慮ができている」と評価している人もいるが、それは誤りである。
配慮とは「結婚とは相性なので、相手が悪いのではなく自分と合わなかっただけです」などという誰でも書けるおためごかしを置いておくことではない。
そもそもデートや見合いというプライベートなやり取りを無断で公開しないことが最低限の配慮である。婚活の愚痴は周囲の知人にだけ吐き出すのが良識というものだ。

具体的に気に障ったのが、以下の部分である。
5話において、作者が「会う時に気にしたポイント」として「差別、人を見下すかんじがないか」を挙げている。
その一方で9話では、マッチング相手が子供向けの英語パズルが解けないことに驚き「パズルはたぶんこの人を表してる この人を尊敬してつきあえるか?」と自問している。
絵描きの婚活レポ 9話 - ジャンプルーキー!

そこで気になったのが、子供向けの英語ができないという深刻なハンディキャップを前にして、その深刻さゆえに、彼にはなにがしかのやむを得ないバックグラウンドがありそうだ、という想像力は働かなかったのかということだ。
そしてそれを公開して、彼がそれを読む可能性は考えなかったのだろうか。

なお、先天的な障害等がなくとも考慮するべきことは同じである。作者は児童館で仕事をしていたようなので、それに寄り添った事例で考えよう。
作者の触れ合っている子供の中には、勉強が苦手な子もいるのではないか。その子が成長し、作者と同様に勇気を出して婚活に挑んだ時に、その苦手な分野の失態を漫画にされ「尊敬できるだろうか」と描かれたと知ったらどんな思いがするだろう。児童館での子供の失敗を公表してはいけないのと同様に、成人男性の悪意のない失敗をあげつらうのも当然、尊厳を貶める行為である。

この程度の想像は子供と接点がなくても決して難しくはないはずなのだが、どうも昨今では、男児はのちに成人男性となる連続した人格の人間であり別の生き物ではない、という常識以前の知識が見落とされがちに思える。

もちろん、断った後の暴言メールは問題行動であるが、それならそのことだけを描くべきであった。
まさか相手が悪い奴であることを強調する道具立てとして「子供向けの英語ができないこと」を事前に持ち出して「人格の悪さ」と「学力の低さ」を結びつけようとする意図があったとまでは思いたくない。

まとめとして、作者は、自分が善い人間でありたいと思うのであれば、婚活で断った相手を晒す漫画など描くべきではなかった。
あれはゲスが描いてゲスが読むジャンルの極北である。
差別や人を見下すことはよくないという他人へ求める条件が、自らを省みる機会にならなかったことが残念でならない。