モキュメンタリーではない恐ろしさ : 東京国立近代美術館「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」
東京国立近代美術館の企画展「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」に行ってきた。
満州建国前後から戦中の記録と宣伝、そして終戦後の振り返りまで、第二次世界大戦に関して主に絵画が担った役割を展示でたどっている。
初めは「満朝旅の栞」のような観光案内や、満州国における五族協和のアピールなど一見明るい話題が続くが、戦況が悪化するにつれて写真週報の紙質も悪くなり、戦死者も神格化されていき、ついには「お父さんお母さん、ぼくも空へやってください」と子供を特攻に誘うような特集まで組まれていく。なんだか最近流行りの、進むにつれて怖くなる展覧会風ホラーみたいだが、こちらはフィクションではないのである。
その中でメディアのプロパガンダを担った双璧として挙げられている一つが朝日新聞社で、もう一つが『キング』、『講談社の絵本』、戦後の『少年マガジン』を刊行した講談社なのだが、どうも世間では後者の責任を問う声が小さい気がする。今でもノンポリっぽい空気をまとってるし、そのあたりの議論ってないのだろうか。少し検索してみたら、のらりくらりと責任回避している様が見えてなんだかなあって感じだった。
また、藤田嗣治の作品も戦争画狂のやべー奴みたいなエピソード込みで展示されてるが、こちらもWikipediaを見てみると戦中以外はほとんどフランスにいて、国際的にはそちらでの評価の方が高いみたいで不思議な存在だ。
思ってたより戦後の章が充実していて、原爆被害の記憶を残すために被災者から募った絵画は、巧緻ではないがどれも心に迫る重い作品だ。また、ベトナム反戦運動からの繋がりで反安保運動の機関誌まで置かれていて、結構踏み込んだ展示だなあと思った。
雑なまとめとしては、戦中の記録は国家の意向で上から作られたもので、戦後の振り返りは、主に民間の記憶をもとに下から組み上げようとする試みだと言えようか。
ニセ教養おじさんとしてインパクトが強かったのが、家庭に防毒マスクを推奨する広告に描かれていた空襲を擬人化した怪物。指先から爆弾を滴らせ毒ガスを噴出する姿は、モンスターデザインとして秀逸だった。

『侍タイムスリッパー』は面白かったです。『カメ止め』の拍手の再現をよく成し遂げた。
一部映画界隈で話題になっている『侍タイムスリッパー』を観てきました。評判通りのいい映画だったので早めに紹介します。
eiga.com
あらすじは、幕末の会津藩士が討幕派の志士を京都で襲撃する際に落雷にあい、現代の時代劇撮影所にタイムスリップして、そこで切られ役として生活する話です。
公開当初はシネマ・ロサ単館での上映でしたが口コミで好評が広がり、今週はTOHOシネマズ日比谷などで拡大上映もされています。
私もTOHO日比谷に観にいったら劇場がプレミアムシアターで、大画面と大音量で楽しめました。主人公の低い声の会津弁がかっこよかったですね。
内容のネタバレにならない範囲で面白かったところを語っていきます。
この作品は「変わっていくもの」と「変わらないもの」の二つを対比させながら進んでいく。
「変わっていくもの」を作中から挙げるなら、それは日本の政体、侍の存在、時代劇の趨勢、個人の生死であったり。
一方の「変わらないもの」は、寺院の存在とセーフティネットとしての宗教、人間の空腹、物語による感動、好きなものへの愛、やるせない思いへのけじめ、そういったものが時代を超えて通じうるものとして描かれている。
これらの題材を巧みに組み合わせることで、先の二つを両輪としてそれに翻弄されながらも進んでいく、人の営みの力強さがスクリーンに表されている。
このような普遍性のあるテーマを扱うと作品が甘く陳腐になりがちだが、それを引き締めているのが話題の殺陣のシーンである。
稽古場の張りつめた空気や、撮影時のミスできない緊張感。そしてラストの立ち回りは、そこにいたるまでの待ち時間までもが、ここから先は引き返せない決戦の場であるぞという厳粛さに満ちている。
息を飲んでスクリーンを見つめる体験ができるのは、間違いなくいい映画である。
ちなみに、この作品に関するシネマカラーズのインタビューで、この監督がさらっと恐ろしいことを言っていた。
実は『カメラを止めるな!』を目指して作ったんですけど、あの作品は脚本と構成が発明的。これはまねできないな。でも、上映中の笑い声と最後に拍手という状況を再現できれば、オーソドックスな脚本のアプローチでも可能かもしれない。そんな思いで脚本を書きはじめました。
この中の「最後に拍手という状況」をオーソドックスな脚本で再現するということは、要するに「めちゃくちゃ面白い映画を逃げずに作ります」という宣言に他ならない。
この映画の評では「時代劇への愛」がよく語られるが、愛だけでは映画はよくならない。内なる愛を空回りさせずに画面に映しこみ、観客に同じような愛を持ってもらうには、確かな映画製作の手腕が必要なのである。
それを実現した安田監督は、間違いなく名手であるといえよう。
(なお、インタビューでは周囲の人にも恵まれた様子が語られていて、それも監督に必要な資質だと思う)
さて、来週は『ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ』、『犯罪都市 PUNISHMENT』、『Cloud』、Netflix版『シティーハンター』劇場公開など、楽しみな映画が9/27に同日公開され、『ゼルダの伝説 知恵のかりもの』もあるので大忙しである。
てか『犯罪都市』シリーズの新作を年に2回も見られるなんてどんな年やねん。
『ふつうの軽音部』第31話のヨンスの扱いはあまりに可哀想だと思った
『ふつうの軽音部』第31話が公開された。
[第31話]ふつうの軽音部 - クワハリ/出内テツオ | 少年ジャンプ+
ここでのヨンスの扱いが、あまりにひどいので可哀想になった。
彼は、主人公の友人である甲山幸山厘に以前振られており、その後も諦めきれない好意を彼女に利用され、知らないうちに軽音部内の攪乱要員として扱われている。
その彼の言動が、イケてない癖に浮ついた男子高校生としてあまりにもリアルだったため、高校生の未熟な恋愛感情に付け込むことの残酷さがあからさまになってしまっているように見えた。
彼が毎日、放課後に監視のため残っていた理由は、せめて金銭目的や悪事の証拠を握られていたなんかの、もっとくだらない理由であってほしかった。
あんなにリアルな片思いを見せられたら、私はもうあの監視をギャグとして笑うことができない。
放課後の教室に一人で座る少年の胸中に生まれた「片思いの相手から頼られてる」という誇らしさを、少しでも想像してみてくれないか。そうすれば、それを弄ぶことの洒落にならなさをいくらか理解してもらえるだろうか。
高校生の放課後というかけがえのない時間を浪費させることの罪深さは、大人になった我々こそ理解するべきなのではないか。
厘がヨンスを利用するために気を引かなければ、おそらく彼は時間とともに彼女を諦め、他に相性のいい人と出会って付き合っていた可能性もあったろう。そういう意味でも、気のない相手を引っ張ることは罪深い。
なお、彼が一度振られた後もくだらないLINEを送っているのは、彼なりにかなり考えて抑制したつもりの最小限のアプローチであろうと、私は実体験から理解している。厘は無言でミュートして済ませるべきだったし、そうできる余地を残した振る舞いだった。
いくら「惚れたら負け」とはいえ、実際はワンチャンもない好意を匂わせて相手をとことん利用する姿勢は、頂き女子(詐欺師)と何が違うのだろう。
振られた相手をしつこく追わないというのが振られた側に求められる矜持なのだとしたら、振った相手に付け込むのは傷口にたかる蛆虫のように卑しい行為だという認識も、振った側には持っていてほしいと思っている。
恋愛はルール無用とはいえ、この一線はお互いにできるだけ守らないと、不幸の総量が増える「悪い恋愛」が量産されてしまう。もし自分の友人がこのような構図のどちらかにいたら、誰だって諫めるだろう。
この倫理観の問題は今後、厘の立ち位置にも関わってくるかもしれない。
主人公の鳩野は、あれだけ周りにキモがられていたヨンスの悪口も言わないよう努めていた。厘はその隣に立つに値する人物だろうか。
もし今後、鳩野のバンドが文化祭に出場できたとしても、その裏側にこのような工作があったと鳩野が知れば、居心地の悪さを強く感じるのではないか。
この作品の根底にある信頼感は、彼女の控えめながらも確固たる善性によるものが大きいだろう。それを裏切らないようにしてほしい。
当該話のはてなブックマークでは、彼の振る舞いに共感性羞恥を覚える人は多かったが、その境遇に同情する人間は少なかった。
彼らは、彼のみっともなさだけを思い出して、それを表出するまでに彼が抱えていたはずの想いや葛藤の存在を忘れてしまったのだろうか。
また、もし二人の性別が逆で、老獪な男子が未熟な女子を騙す構図だったとしたら、みんなこんなにヘラヘラ笑って済ませていただろうか。
女子の未熟は社会的に保護されるべき弱さで、男子の未熟は利用されても仕方ない悪徳だという通念がそこに存在するとしても、せめて過去にヨンスだった自分くらいは、彼の想いを軽々しく踏みにじるなと怒りを表明したいと思った。
作中の甲山幸山厘と、作品の外から彼を嘲った人たちのことを、私はしばらく許せそうにない。
【2024/7/23 10:49 追記】
「ヨンスもワンチャン狙ってるから利用されても仕方ない」という意見があるけど、そのワンチャンを匂わせて錯覚を強化したのは他ならぬ厘じゃん。表向きの文面で断っておけば、内心で嫌いながら「頼めるのはあなたしかいない」と頼って勘違いさせるのは褒められた行為?
あと「LINEをミュートさせることを想定したアプローチは相手の手をわずらわせるので厚かましい」と言う人もいたけど、行き場のない好意の落とし所としてはあってもよくない? 「嫌いな相手のためにミュートボタンを押させるのさえ行動の制限であり許されざる加害だ」と主張する人は、自分からは指一本動かしたくないお姫様気取りかと思う。
私は、好きな相手にみっともなくアプローチするのも若者の恋愛の要素だと思っているのだけど、理想のアプローチしか許さず、そこから少しでも外れた者をキモいだの加害だの断罪する人って、自分はそんなに洗練された完璧な恋愛だけをしてきたのかな。葛藤を抱えながら恐る恐るアクションを起こして、それで失敗したこととかないのだろうか。
まあ、受け身で品定めをする側から一歩も動かなければ、恥ずかしい失敗や周りに迷惑をかける余地は確かにないのだろうけど。
2024年の4月までに観た面白い映画(『デデデデデストラクション 前章』はまだやってるよ、という話)
前回のエントリに続き、2024年に入ってから現時点までに観た面白い映画を並べていきたい。
なお、韓国映画はハズレ率0%で弾数もあるので、別建てにして紹介したい。
『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章』 (映画.com)
ゴールデンウィーク中もまだ前章が上映しているので、面白いアニメ映画が観たい人には観にいってほしい。というかこのエントリを今上げる理由はこの映画を勧めるためである。
明日にはすべて壊されているかもしれない青春の不穏さと明るさを、いっときも緩むことなく映し続けることに成功している。この、統一された雰囲気にずっと浸れる感覚は非常に心地がいいものだ。
なお、私同様に原作の浅野いにおが好きでない人もいるだろうが、心配はいらない。たしかに原作で彼が熱心に描いた「政治」の描写はデモとレスバと陰謀論しかなく、まるで世界がツイッターでできているかのような薄っぺらさは読んでて恥ずかしくなるくらいだが、映画ではその部分を適切にオミットし、それに接するキャラクターの心情の方に重きを置くことで欠点をカバーしている。やはり脚本の吉田玲子の手腕は確かなものであった。
5/24に上映する『後章』の出来しだいでは今年のベストアニメ映画連作になるかもしれないので、見ておいて損はないと思う。
『アーガイル』 (映画.com)
『キングスマン』のマシュー・ヴォーン監督のスパイものだが上映期間が短く、もっと話題になるべきだと思ったエンタメの良作。
荒唐無稽などんでん返しと冗談みたいなアクションシーンが特徴なんだけど、どれも丁寧に布石を置いた上で出されるから、納得して楽しまされてしまうんだよな。
特に「理想のスパイ」としてエージェント・アーガイルの幻影が見える理由が、ヒューマニズムに根差していて感動してしまった。
『キングスマン』ファンに向けた小ネタもある。
『流転の地球 太陽系脱出計画』 (映画.com)
『三体』の原作者による工学SFの映画化。
「地球崩壊の危機を前にデジタル空間に逃避するような軟弱者はいらん! 生命体なら物理で解決!」というメッセージと、発言を急かされながらその内容を逐一監視されるシーンの緊張感が『三体』と通じている。やっぱりサイバーパンクは自由主義的な思想なんだな。
3時間近く巨大なメカがひたすらガッチャンガッチャンしているので、そういうのが好きな人には非常にお勧め。
おそらくめちゃくちゃ製作費がかかってるだけあって、エンドロールもすごく長かった。
世界的な天才を集めたプロジェクトの目的が世界を破壊する兵器だなんて、ほんと昭和って野蛮な時代だよな。オッピーも現代に生まれてたらザッカーバーグみたいにクソ広告で金を稼いでいたのだろうか。
原爆の被害描写については比喩や演出を用いて、描かずに描くテクニックがきまっていてとても好きなのだけど、これは実際の被害をある程度知っていることを前提とした手法なので、その知識がなく漫然と見過ごしてしまう人にはもったいない映画だと言えよう。
難解だと言われてたので身構えて行ったけど、特にそんなことはなく緊張感を持ったまま3時間観ることができた。
2022年に、ディズニーが映画館でさんざん予告を流しておきながら劇場公開せずディズニープラスのみで配信するという暴挙に及んだことでミソが付いた作品。
2024年に改めて全国で劇場公開したが、ディズニー系列のシネマイクスピアリ以外の映画館では朝一とかの観づらい時間帯しかやっていなくて、いまだに続く確執を感じた。
しかし、映画自体はとても完成度が高かった。現代の寓話として、整理されたストーリー構成と親しみやすいビジュアルデザインはほぼ完璧と言ってもいいだろう。
あまりにしっくり来るので、昔なにかのアニメか漫画でこういう話を見たような既視感を覚えるくらいである。
それにしても、予告でやっていた『インサイド・ヘッド2』とテーマが「思春期」で丸かぶりなのだが、こんな真っ当な作品を先に出されてむこうは大丈夫なのかと余計な心配をしてしまった。
2023年に観た面白かった映画
2023年はコロナ禍の反動か大作映画も数多く公開され、この記事に入らなかったものも含めて全体的にクオリティも高く、豊作だったと思う。
2024年もその傾向が続いているようで、ついでに面白い近作も紹介したいと思いながら記事を書くのを先延ばしにしていたらどんどん分量が増えてしまったので、できるだけ早く別建てで紹介したい。
という訳で、とりあえず2023年のベスト3と面白かった作品を挙げる。
第1位
『リバー、流れないでよ』 (映画.com)
温泉街の老舗旅館が2分間のループに囚われる話。
持論だが、ループ物は観客から時間の感覚を切り離す反面、場面に繰り返し映し出される場所の魅力が問われる構造なのではないだろうか。
この作品では、老舗旅館のお勝手、ロビー、客間、別館という適度に非日常的な場所を通じ、複数のスタッフや宿泊客が関わることで、繰り返しを飽きずに楽しめる。
そしてなにより、裏手の小川で恋人が語らうシーンは、ループごとに表情を変える背景のあまりの美しさに泣いてしまった。
この映画は、この京都の貴船というロケ地を選んだことで成功したと言ってもいいだろう。
第2位
『コンフィデンシャル 国際共助捜査』 (映画.com)
韓国と北朝鮮とアメリカの刑事が、協力して麻薬組織を追跡する話。
こちらも別のエントリとして書きたいけど、2023年以降はけっこう韓国映画を見ていて、そこにハズレがまったくなくて驚いている。中でもこれはエンターテインメントとして抜群の出来。
3人の刑事のキャラが人情系、ワイルド、エリートとそれぞれ立っていて、コメディもアクションも全く妥協がなく2時間圧倒されっぱなしだった。韓国の俳優って、銃を持たせてもナイフを持たせても皆めっちゃ動けるよね。
ストーリー構成も巧みで、韓国の刑事の妹と北朝鮮の刑事との少しずつ近づいていく関係が、次回作への引きとしてしっかり機能している。
本筋ではないけど気になったのは、コメディとはいえルッキズムがあまりに当然視されている点で、実社会でもこんな雰囲気ならしんどそうだなと思った。
黒柳徹子という人間の根元を形作ったトモエ学園での体験と、それに忍び寄る戦争の影響を鮮烈に描いた作品。
戦場そのものを描かなくとも、戦争で失われるものがなにかを深く印象に残すことに成功している。2023年のアニメ映画ではベストであろう。
ちなみに原作を読むと、映画には出てこない世界的なスキーヤーやダンサーが脇役としてさりげなく登場していて、映画の家庭描写だけでなくそこにも文化資本の存在を感じることができる。
あとがきでトモエ学園の跡地として書かれている自由が丘のピーコックストアはまだあるようだ。
その他、順不同で面白かったものを語っていきたい。
『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』 (映画.com)
ああ、俺いま自我拡散系のSF観てるなあと感じられる貴重な体験だった。なかなか映像化されないジャンルだからね。
無限に拡散した自己を、キーとなる存在をよすがに収束させる展開も王道でよかった。
おバカなアクションも、今の香港では撮れなくなった香港映画っぽくて懐かしかった。
『ベイビーわるきゅーれ 2ベイビー』 (映画.com)
敵役の殺し屋タッグが、襲撃前に自らを鼓舞するために中学時代の部活のシュプレヒコールを上げるシーンを見て、「ああ、これは俺が住んでる日本の話なんだな」という実感が急に湧いてきた。
こういう「ここは俺たちの世界なんだ」と思わせるギミックが上手いんだよな、このシリーズ。
『イノセンツ』 (映画.com)
ノルウェーの大友克洋オタクが、実写版『童夢』のお蔵入りに業を煮やして勝手に作ってしまった作品(監督がリスペクトを明言している)。
なので団地で子供が超能力を奮って争う。違いはコンクリートにめり込まないことくらい。
派手なエフェクトはないがどの画面も美しく、特にクライマックスシーンは静かな緊迫感に溢れていて、映像と原作の力を感じた。
『PHANTOM/ユリョンと呼ばれたスパイ』 (映画.com)
こちらも韓国映画。気鋭の監督による痛快なスパイアクションなのだが単館上映で、なぜなら抗日映画だからだと思われる。(もし本当にそれが理由なら、それが理由になること自体が残念であるが)
開幕間もなく、朝鮮神宮の巫女にピストルを持たせて日帝のから来た総督を暗殺させようとするのが、とてもアナーキーな映像でかっこよかった。「オタク君こういうのが好きなんでしょ?」と言われた感じ。
これに限らず、最後まで撮りたい絵にこだわりが感じられて好感度が高かった。
日帝統治下の話なので、体制側は現地出身者含めてすべて日本語で会話し、そこから外れると朝鮮語で話すという非常に手間のかかった台本と演技になっており、流暢でありながら訛りのある日本語に感じる引っ掛かりが、植民地支配への違和感にも繋がっていくのだろう。もし吹替があるとしても字幕での鑑賞をお勧めする。
ちなみにこのイ・ヘヨン監督が『毒戦 BELIEVER』で撮った、塩田の麻薬アジトで冥銭を燃やすシーンがすごく好きで、これからもこの監督は追っていきたい。
『エルフ夫とドワーフ嫁』の感想と『絵描きの婚活レポ』における失礼について
『エルフ夫とドワーフ嫁』の感想
エルフのカーシュからドワーフのキオナへの想いばかりが描写され、キオナからは彼女の課した条件をカーシュがクリアしたことへの安心感しか描かれないので、アンバランスさを感じた。
キオナの人生には、カーシュは必須ではなさそうに見える。いればうれしいけどいなくても困らない、というオプション扱い。
ブコメにもあった、終始選ぶ側からの視点に重きを置いた漫画だという指摘は間違いではないだろう。
まあ、惚れたら負けとも言われるし、積極的に恋愛はしたくないけど条件を満たした相手から誠実なアプローチを受ければ考えてやらんでもない、という欲求には私も共感するし、そういうニーズを満たすのに都合のいいファンタジーだと思う。
これまでの恋愛漫画のようにかけがえのない相手との心乱されるやり取りを楽しむのとは違う、恋愛至上主義から脱却する方向の作品なのかもしれない。
『絵描きの婚活レポ』における失礼について
さて、本題。
まずこの作品を「配慮ができている」と評価している人もいるが、それは誤りである。
配慮とは「結婚とは相性なので、相手が悪いのではなく自分と合わなかっただけです」などという誰でも書けるおためごかしを置いておくことではない。
そもそもデートや見合いというプライベートなやり取りを無断で公開しないことが最低限の配慮である。婚活の愚痴は周囲の知人にだけ吐き出すのが良識というものだ。
具体的に気に障ったのが、以下の部分である。
5話において、作者が「会う時に気にしたポイント」として「差別、人を見下すかんじがないか」を挙げている。
その一方で9話では、マッチング相手が子供向けの英語パズルが解けないことに驚き「パズルはたぶんこの人を表してる この人を尊敬してつきあえるか?」と自問している。
絵描きの婚活レポ 9話 - ジャンプルーキー!
そこで気になったのが、子供向けの英語ができないという深刻なハンディキャップを前にして、その深刻さゆえに、彼にはなにがしかのやむを得ないバックグラウンドがありそうだ、という想像力は働かなかったのかということだ。
そしてそれを公開して、彼がそれを読む可能性は考えなかったのだろうか。
なお、先天的な障害等がなくとも考慮するべきことは同じである。作者は児童館で仕事をしていたようなので、それに寄り添った事例で考えよう。
作者の触れ合っている子供の中には、勉強が苦手な子もいるのではないか。その子が成長し、作者と同様に勇気を出して婚活に挑んだ時に、その苦手な分野の失態を漫画にされ「尊敬できるだろうか」と描かれたと知ったらどんな思いがするだろう。児童館での子供の失敗を公表してはいけないのと同様に、成人男性の悪意のない失敗をあげつらうのも当然、尊厳を貶める行為である。
この程度の想像は子供と接点がなくても決して難しくはないはずなのだが、どうも昨今では、男児はのちに成人男性となる連続した人格の人間であり別の生き物ではない、という常識以前の知識が見落とされがちに思える。
もちろん、断った後の暴言メールは問題行動であるが、それならそのことだけを描くべきであった。
まさか相手が悪い奴であることを強調する道具立てとして「子供向けの英語ができないこと」を事前に持ち出して「人格の悪さ」と「学力の低さ」を結びつけようとする意図があったとまでは思いたくない。
まとめとして、作者は、自分が善い人間でありたいと思うのであれば、婚活で断った相手を晒す漫画など描くべきではなかった。
あれはゲスが描いてゲスが読むジャンルの極北である。
差別や人を見下すことはよくないという他人へ求める条件が、自らを省みる機会にならなかったことが残念でならない。
ウルトラマンは、いつ神永新二に追い付いたのか(『シン・ウルトラマン』についての思い付き)
映画『シン・ウルトラマン』を観てきました。
とてもユニークで面白い作品だったので、少しでも興味のある方はぜひ観にいってください。
特に、予告にも出ていたメフィラス星人のキャラクターは必見です。
以下はネタバレを含みます。
とても楽しめた作品だが、ストーリーに関して、ウルトラマンがなぜあそこまで捨て身で敵に立ち向ったのか、その理由付けが乏しいのではないかという意見も見られる。
人類を愛していたから、バディである浅見弘子(長澤まさみ)を初めとする禍特対のメンバーとの絆のためだからとすれば、その根拠となる描写が足りないのではないか、と。
私も観終わってしばらくはそのように感じたが、考えを巡らせてみて一つの可能性を思いついた。
ウルトラマンが自己犠牲を払った最大の理由は、人類全体や周りの仲間のためではないのではないか、と。
神永の体を借りたウルトラマンが一時失踪している間、図書館に通っていたシーンと並んで、森の中で神永の死体に向き合っていた描写が印象に残っている。
彼はその時、何を考えていたのだろうか。
もしかしたら彼はずっと「この神永という人間が、自らの命を捨てる時に何を考えていたのだろうか」という疑問に憑りつかれていたのではないか。
自己犠牲の概念を持たない外星人は、その奇妙で衝撃的な行動原理に心を囚われてしまったのではなかろうか。
数多の書物に自己犠牲に関する説明はあっただろう。しかし、表層的にその理路を知ることはできても、その場の当人の心情を想像することは同族にさえ難しい。
普段から自己犠牲の尊さを唱える人物がいざとなったら逃げだしたり、一見臆病に見える人間がその身を投げ出すことを厭わなかったり、究極の選択の場において言葉はしばしば無力である。
だからウルトラマンはこのような結論に至ったのではないか。「彼の思いを知るためには、彼の行動を模倣し、自分も見ず知らずの人間のために命を捧げるしかない」と。
そうして彼は、一人では歯が立たないと知りながらもゼットンに立ち向かった。
圧倒的な火力に打ち倒され、死を覚悟しながら墜落する中で、ようやく彼は自己を捧げた者にしかたどり着けない、神永と同じ境地に立てたと確信したのだ。
落下しながらウルトラマンの姿から神永の姿へ、流れるように自然に移り変わるシーンは痛ましくも誇らしげで、彼が心身ともに神永と一体化した瞬間を捉えているようだ。
もちろん、神永自身が死の瞬間に何を思っていたかは実際には知りようがないのだが、命を賭して到達した場所で生まれたウルトラマン自身の思いは、神永と同等の重さを持つはずだ。
何万年もの寿命を捨ててまで誰かのことを知りたいという願いは、間違いなく愛の一種だろうし、模倣という形で愛を表現するのがテーマだとすれば、とても庵野秀明らしい脚本だとも言えるだろう。
そういう風に考えれば、色々と納得できるとてもいい映画だったと思えた。